”PROJECT1867”として、様々な行事が行われる予定です。
昨年(2016年)11月に『松戸の中のパリ フランス式庭園ツアー』が行われました。
松戸探検隊ひみつ堂が募集したこのツアーに申し込んだ市民の方30人が、戸定歴史館の齊藤洋一館長、千葉大学園芸学部の小林達明学部長のお話を聞きながら、松戸シティガイドさんの案内で千葉大学園芸学部の庭園を巡りました。
◆徳川昭武、将軍の名代(みょうだい)としてパリ万国博覧会(万博)へ
1867年(慶応3年)に行われた第2回パリ万博には、15代将軍・徳川慶喜の名代として、水戸出身で慶喜 の弟にあたる徳川昭武 (当時満14歳)が派遣されました。
この使節団には渋沢栄一も随行し、江戸幕府のほか薩摩藩・佐賀藩も出展をしました。昭武はこの時、ナポレオン3世にチュルリー宮殿で謁見し国書を渡しました。また、当時特別な身分の人でないと入ることの出来なかったベルサイユ宮殿にも招かれ、庭園を見るという貴重な経験をしました。
パリ万博期間中の1867年11月10日に大政奉還となり、その後江戸幕府は終焉を迎えました。この事態に昭武は翌年帰国をすることになるのですが、このフランス滞在期間中にはシェルブールでカフェ巡りをするなど、過密な日程をこなしながら、多くの体験をしました。
◆パリ万博と日本の園芸・造園との関わり
19世紀に行われたパリ万博は、オスマンの都市改造(1855年)から第4回エッフェル塔建設(1889年)を経て、5回開催されました。
日本はその2回目(1867年)から毎回参加し、「ジャポニズム」の流行を巻き起こしました。
造園・園芸部門でも日本庭園と茶室の出展や、盆栽の出展などはどれも好評に受け入れられ、大作菊では大賞を受賞するなど手工芸品や浮世絵などと共に日本文化の宣伝に大きく貢献しました。
1886年には福羽逸人(ふくばはやと)が自身一回目の渡欧をし、1888年にベルサイユ園芸学校に入校。後に、新宿御苑の設計をするアンリ・マリチネに造園法を学びました。
福羽逸人は第4回(1889年)・第5回(1900年)のパリ万博に日本庭園や盆栽・大作菊の出展、大賞受賞に関わりました。
林脩巳(はやしのぶみ)が現千葉大学園芸学部の洋風庭園を造る
千葉大学園芸学部の前身は、千葉県立園芸専門学校です。
戸定が丘にあった千葉中学松戸分校が千葉県農業試験場の移転先となり、1909年に千葉県立園芸専門学校が開校しました。
英国留学から帰国後は、岩崎邸(現三菱の迎賓館)に西洋庭園を造りました。
千葉大学園芸学部の原点はここにある、と言われています。
現在も伝わるフランス式庭園、イタリア式庭園、イギリス風景式庭園、ロックガーデンなどは、林脩巳と生徒によって実習で造られたものです。
庭園は観光名所にもなっていたと言われ、1924年(大正13年)与謝野晶子がこの地を訪れた時に、花園の美しさを60首の短歌に詠んでいます。
与謝野晶子は松戸出身の洋画家・板倉鼎(いたくらかなえ)と親交があり松戸を訪れていたそうです。
短歌は、戸定が丘歴史公園内や千葉大学園芸学部庭園内にある歌碑で読むことができます。
徳川昭武の戸定邸庭園への庭園と樹木愛
戸定邸庭園は2度の拡張工事がなされ、完成までに6年を要しました。
庭園には、軒下まで全面にはられた芝生があります。全面の芝生が、洋風庭園と言われる理由の一つです。
そして、7本植えられているコウヤマキは当時樹齢100~200年のものが集められ、160人の人夫によって2日掛かりで丘の上まで運びあげられました。
その配置にも強いたこだわりがありました。
そこに「昭武の庭園と樹木に対する愛とこだわりを強く感じる。」と、戸定歴史館の齊藤館長は言います。
徳川時代に幕がおり、新し国家体制の中で戸定邸は、昭武が徳川家として「どういう空間で暮らしたいのか」いう姿が投影されている場所なのだそうです。
戸定邸庭園が国の名勝に指定されたことを受け、明治期の庭園の姿に復元する工事を行っています。
庭園の公開休止期間:平成28年11月29日から平成29年夏頃まで(予定)
松戸の中のパリ~100年前に引き寄せられた庭園愛
昭武の2度のフランス留学での感動と経験、林脩巳の英国留学時に英仏米で園芸修行を積んだ感動と経験が、それぞれの庭園として具現化されました。
ここでこうして隣り合って西洋庭園を作ったことは、たまたまの不思議な事象なのだと齊藤館長は言います。
そして、松戸の中のパリを是非感じてみて下さい。
《PROJECT(プロジェクト)1867イベント予定》
◆戸定歴史館
徳川昭武がパリ万博にPROJECT(プロジェクト)1867「プリンス・トクガワと渋沢栄一」を、
2017年3月18日(土曜)から6月25日(日曜)の会期で開催します。