松戸まつど
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歴史 2018年4月10日

徳川厚 男爵とその家系につながる人々

~はじめに~

徳川第15代の将軍・徳川慶喜の四男・厚(あつし)は、わが街松戸の戸定邸に、度々来られていました。今回のレポートは徳川厚男爵につながる人々として、厚男爵の孫にあたる、千代田区紀尾井町の戸田豊重(とよしげ)町会長を訪問、取材はスタートしました。(原則、本文中の敬称は略しています。)

徳川 厚

戸定が丘歴史公園入口

 

徳川慶喜家家系図


取材のきっかけ

平成28年10月号の倫研新報に、紀尾井町町会長・戸田豊重氏が地元代表として、倫理研究所の創始71周年式典に祝辞を述べていました。かつ、同氏のご母堂は徳川慶喜公の孫であると報じていました。その記事を拝見して、「松戸市が紀尾井町と見えざる縁の糸に結ばれている」と感じ、今回の記事のテーマにしました。

私が住んでいる松戸市にある戸定邸は、徳川慶喜公の弟・徳川昭武(あきたけ)の私邸でした。松戸市と紀尾井町(紀州家・尾張家・井伊家)は歴史上つながることも多く、徳川家とは、徳川家康・水戸光圀の時代以来、関係することが多々あります。
そこで、ここに、【徳川厚 男爵とその家系につながる人々】として取材しまとめました。

徳川家最後の将軍 その頃の歴史的背景

「紀尾井町」の名は、江戸時代に紀州徳川家、尾張徳川家、彦根井伊家の江戸屋敷があったことに由来します。昨年、平成29年(2017年)は、徳川慶喜(以下、慶喜とします)が、徳川家15代最後の将軍として政権を朝廷に奉帰した、慶応3年(1867年)10月15日から150年目でした。
その年の正月、慶喜は弟の徳川昭武(以下、昭武とします)を、わが国の将軍代理(名代)として、パリ万博に派遣しました。
昭武は、最後の水戸藩主となりましたが、帰国後は既に幕府は存在せず幻の将軍となったのでした。
今から約150年前は、わが国の政治、外交、文化にとって大きな転換期だったのです。

戸定邸

明治維新後、昭武が松戸の地に、私邸として戸定邸を建てたのが今から134年前の明治17年(1884年)のことです。

昭武の兄・慶喜も戸定邸に来られていましたが、慶喜の四男・徳川厚はその戸定邸をたびたび訪れ、邸宅や庭園などを背景に、写真を撮ったり、撮られたりしていました。

 


戸定歴史館所蔵の写真を紹介しましょう

「松戸あづまや」1901.5.17(徳川厚撮影)

「狩猟姿の厚と猟犬」1899.2.10

「秋庭と万年青」1901.5.17(厚撮影)
万年青(おもと)を栽培している小屋と昭武の母堂・秋庭(しゅうてい)

徳川厚の写真(洋装服)

徳川厚と弟の徳川博(慶喜の5男・後の池田仲博侯爵)

上の2枚の写真は明治20年(1887年)4月、浅草の写真スタジオで撮影された(撮影者:江崎禮二)。ランドセルの飾りが興味深いです。背景は書き割り(背景画)。これらの写真は松戸市戸定歴史館所蔵です。

徳川厚の略歴

徳川 厚(とくがわ あつし)
生年月日  明治7年(1874年)2月21日
没年月日  昭和5年(1930年)6月12日
慶喜の子たちは、長男から3男まで早世したので、成人まで育ったのは、男子では4男の厚が初めてでした。そのため、慶喜の事実上の長男として育てられました。
明治15年(1882年)数え9歳で宗家から分家し一家を創立しました。
明治17年(1884年)の華族令によって11歳のときに男爵を授かりました。
なお後年、慶喜が公爵に叙され新たに徳川慶喜家をおこしますが、その家督は厚の弟である徳川慶久(よしひさ)が継いでいます。
明治20年(1887年) 弟の博と共に、静岡から東京に移り学習院に入学
明治28年(1895年) 越前福井藩主・松平春嶽の6女・里子と結婚
明治37年(1904年) 貴族院議員に選ばれ、貴族院議員を務めた後、東明火災保険(のちに東京火災保険に合併)取締役を務める
昭和5年(1930年)  数え57歳で没する

徳川宗家の家督は

上述のように、厚は明治15年(1882年)に分家したので、徳川宗家自体の家督は、慶喜から慶応4年(1868年)に慶喜の養子である徳川家達(いえさと)が継いでいます。

戸定邸との関わり

徳川厚を中心とした系図1(抜粋)

厚は、父の慶喜と同じく写真と狩猟が趣味でした。兄達が夭折したため、慶喜の事実上の長子となりました。慶喜は慶応3年(1867年)大政奉還の後、30歳の若さで長い隠居生活に入りました。慶喜は明治元年(1868年)より、駿府(現静岡市)に住んでいました。
厚は上京の後は、向島の水戸徳川家小梅邸、そして結婚後は千駄ヶ谷の南邸に住んでいました。厚も写真と狩猟が趣味でした。同じ趣味を持つ叔父の徳川昭武が住む戸定邸を頻繁に訪れて、泊まったり、写真を撮ったり、撮られたりしていました。

 

徳川厚を中心とした系図2


徳川厚の次女・徳川喜和子

厚と、松平慶永(春嶽)の六女・里子との間に生まれた次女が徳川喜和子です。明治43年(1910年)10月13日東京生まれ。徳川喜和子は徳川慶喜の孫娘にあたります。
喜和子は、昭和5年(1930年)戸田豊太郎と結婚。昭和6年(1931年)に生まれた長男が、紀尾井町町会長の戸田豊重氏です。2男2女をもうけましたが昭和24年(1949年)に離婚、徳川姓に戻りました。
83歳まで車を運転したという喜和子は、10歳から馬術を習い、東京馬術倶楽部の会長も務めました。同倶楽部は大正10年(1921年)に設立され、役員には徳川・松平一族が多数、名を連ねています。松平家(伯爵、讃岐高松家)で同家の13代目の当主だった松平頼明(よりひろ)も、同倶楽部の名誉会長を長らく務め、本郷学園理事長、早大評議員会会長などを歴任しました。頼明の長男・頼武の妻は喜和子の次女・豊子です(前頁家系図参照)。このように、東京馬術倶楽部は徳川の閨閥で役員が構成されていました。
また、松戸に住む徳川昭武の長女・昭子は、松平頼明の養母にあたり、昭子の夫(頼明の養父)は貴族院議長を務めた松平頼寿(よりなが)。ここにも松戸・戸定邸とのご縁がありました。

徳川喜和子(戸田豊重会長提供)

左から、喜和子、徳川正子(秩父宮妃殿下妹)、山本千代子(山本権兵衛孫)


日本の貴婦人・徳川喜和子

喜和子のお人柄しのばれる語録を集めてみました。

「お金で誇りは買えないんです。心の中から自然に溢れ出るものなんですよ」
「私はありのままが好き」
「優しい言葉より、厳しく躾けられたことのほうが頭に残っているの」
「“遊ばせ言葉”だけでなく、さまざまな言葉を使い分けるの」
「今の奥様方はしたい放題なんですね。ある程度はそのほうが結婚生活が長続きする」
「人の喜びは共に喜び、悲しみも共に悲しむ・・・共に悲しむことができても、共に喜ぶってことがなかなかできないらしいんですね」
「いくら時代が変わっても、ある面では同じ常識っていうものがある」
「けじめがなくだらしなくなるのは、絶対いけないことだと思うんですよ。」
「馬が好きで乗るべきなのに見栄で乗るのはどうかしら」
など。

喜和子の母・里子は松平春嶽の側室・婦知子(ふじこ)に厳しく育てられました。そんな母・里子から喜和子も厳しく育てられたのでしょう。いつも背筋をピンと伸ばし将軍家をことさらにひけらかすことはなかったといいます。
喜和子は戦後、戸田豊太郎と別れ、徳川姓に戻って、平成9年(1997年)86歳で亡くなりました。


日本工業倶楽部の建物を守った 戸田豊太郎

戸田豊太郎

戸田豊太郎は明治31年(1898年)兵庫県で生まれ、ケンブリッヂ大学卒業後、日経連外国課長を経て、秋田製鋼(株)社長などを歴任。
昭和20年(1945年)9月15日、丸の内の日本工業倶楽部会館が占領軍に接収されそうになった時、当時相談役であった戸田豊太郎が疎開先から帰京し、占領軍とかけあい、米軍幹部との連絡の手がかりをつけ始め、接収されずにすんだそうです。その功績により日本工業倶楽部の顧問となりました。

日本工業倶楽部会館


徳川宗家につながる徳川喜壽(のぶひさ)氏

紀尾井町町会事務所にて

現在の徳川宗家の分家の当主・徳川喜壽氏(写真中央)と、紀尾井町町会長の戸田豊重会長(写真左)と共に会いました。徳川喜壽氏の父・喜堅(のぶかた)氏と戸田豊重会長は戸籍上の従兄弟になります。
訪問先の紀尾井町町会事務所では「慶喜公子孫系図」を広げ、徳川喜壽氏と戸田豊重会長のお二人から説明を受けました。右にいるのは市民記者の私です。

戸田豊重会長名刺

徳川喜壽氏名刺

この「慶喜公子孫系図」は慶喜の子孫、三百余名の系図です。

慶喜公子孫系図

慶喜公子孫系図について


紀尾井町町会 戸田 豊重会長 「あらぶんちょ通信 2017年11月号」Ⓒ東京ケーブルネットワーク株式会社


~取材を終えて~

今回は、表題のとおり、慶喜から戸田会長につながる人間模様を中心に取材しました。わが街、松戸と紀尾井町の共通点を挙げれば、
①まず、歴史や伝統にささえられている。
②緑多き静かな環境の街である。
③人間模様では、見えざる縁の手でつながっている。
といえます。
江戸時代からのつながりが多々ありますが、明治維新を機に深まった関係、例えば、昭武に随行した渋沢栄一は、パリ万博で、経理や危機管理に卓越した手腕を発揮しました。のちに経済人として活躍する原点は、万博にあったといえます(戸定歴史館資料参照)。渋沢栄一は、戸田豊太郎の項で紹介した、日本工業倶楽部の創設に、深く関わり、終戦時の戸田豊太郎の思索や行動につながっているといえます。
これからは紀尾井町と松戸市の文化面の交流など、両地域の良さを再発見し、子孫に伝えていく事も大事でしょう。
わが街にある戸定邸こそ、戸定が丘歴史公園も含め、四季折々の草花も美しく、歴史的な展示物も多々あり、地域再生の拠点となることを期待しています。なお、戸定邸庭園(国指定名勝)はただ今改修中です。約2年に及んだ復元工事が今春完了し、6月頃より公開の予定です。
戸定歴史館では、旧徳川昭武庭園復元記念として、【いま甦る明治の庭】として、記念展を開いています(7月1日(日)まで)。ぜひご覧ください。
戸定邸の詳細はこちら
【参考文献】
『日本の貴婦人』稲木紫織(Classy.interview)
『徳川慶喜家にようこそ』徳川慶朝(文春文庫)
『徳川慶喜を紀行する 幕末二十四景』津川安男(新人物往来社)
『慶喜邸を訪れた人々』前田匡一郎(羽衣出版)
『聞き書き徳川慶喜残照』遠藤幸威(朝日新聞社)
『徳川慶喜のすべて』小西四郎編(新人物往来社)
『最後の殿様 徳川義親自伝』徳川義親(講談社)
『日本工業倶樂部五十年史』日本工業倶樂部五十年史編纂委員会
『倫研新報 第711号』(一般社団法人倫理研究所)
廣瀬 亘

廣瀬 亘 (ひろせ わたる)

東京浅草生まれ。松戸在住54年。趣味は歩くこと・ラジオ体操・短歌・囲碁・LINE・Facebook。広報まつどを見て、歩く催しやまつど生涯学習大学講座に参加。知り得たホットな穴場や文化活動や若い人たちの活動を中心に紹介しています。

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